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皮膚とインクの形而上学 ~背徳の希少本修復師と死にゆく貴族の淫らな契約~
皮膚とインクの形而上学 ~背徳の希少本修復師と死にゆく貴族の淫らな契約~
ผู้แต่ง: 佐薙真琴

第一章 カルトンの牢獄

ผู้เขียน: 佐薙真琴
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-11 10:44:30

 世界は、分厚い雨の膜に包まれていた。

 フランス・ロワール地方の深い森。昼下がりだというのに、空は古い羊皮紙のように黄ばんでくすんでいる。

 相沢透子あいざわとうこを乗せた黒塗りのセダンは、鬱蒼とした木々のトンネルを、まるで巨大な獣の食道へと滑り落ちていく異物のように、音もなく進んでいた。

 窓ガラスを無数の雨粒が叩く。その一つ一つが、透子には世界から拒絶される打音のようにも、あるいは内側へ閉じ込めようとする檻の格子のようにも感じられた。

 ガラスに映る二十八歳の自分の顔。

 黒髪は一本の乱れもなくひっつめられ、銀縁の眼鏡の奥には、感情を凍結させたような理知的な瞳がある。古書修復師ルリユール。パリのマレ地区に工房を構え、業界では「氷の針」とあだ名されるほどの精密さと冷徹さで知られる女。

 それが、相沢透子という女の表紙だった。

 だが、装丁の下にある本文が、どのようなインクで書かれているかを知る者はいない。白衣の下で脈打つ皮膚が、常に満たされない渇きに震え、誰かに乱暴にページを捲られる瞬間を待ちわびていることを、彼女自身ですら認めることを恐れていた。

「到着いたしました、マドモアゼル・アイザワ」

 運転席の老人が、抑揚のない声で告げた。

 ワイパーが雨を拭うたび、視界の先にその異形が浮かび上がった。

影の城シャトー・ド・オンブル」。

 地図にも載らないその古城は、湿った森の深奥に、墓標のように、あるいは巨大な男根のように聳え立っていた。苔生した石壁は黒ずみ、何世紀もの間、風雨と、そして城の中で繰り広げられたであろう無数の秘密を吸い込み続けてきたかのような、重苦しい威圧感を放っている。

 透子は重い革の鞄を手に、車を降りた。

 湿った空気が、不躾に肺を満たす。

 それは、ただの雨の匂いではない。腐葉土の甘い腐敗臭、濡れた石の冷気、そして微かに漂う鉄錆の匂い。さらに、どこからともなく流れてくる濃厚な百合の香りが、鼻腔の粘膜をねっとりと撫でた。

 聖なる花でありながら、その極限において腐臭にも似たエロスを放つ百合の香り。その芳香だけで、透子の下腹部に微かな熱が灯った。

 重厚なオークの扉が、油の切れた蝶番の悲鳴を上げて開く。

 エントランスホールは、時間の止まった空間だった。

 床は黒と白の大理石で市松模様を描き、高い天井からは巨大なシャンデリアが、獲物を待つ蜘蛛の巣のようにぶら下がっている。

「お待ちしておりました。あるじは図書室におります」

 影のように音もなく現れた執事が、恭しく頭を下げた。

 案内された長い廊下。壁には歴代当主とおぼしき肖像画が並んでいるが、どれもニスが黒変し、瞳の部分が暗く沈んでいて視線を感じない。

 カツ、カツ、カツ……。

 透子のヒールの音だけが、静寂という張り詰めた皮膚に爪を立てるように、鋭く響いた。

 歩を進めるたびに、透子の理性が警鐘を鳴らす。

 引き返すべきだ。ここは、堅実な職人が足を踏み入れていい場所ではない。

 だが、彼女の本能は、その警告をあざ笑うかのように、子宮の奥をきゅっと締め付け、蜜を分泌し始めていた。

 通された図書室は、透子がこれまでに見たどの図書館よりも圧倒的で、そして背徳的だった。

 四方の壁を天井まで埋め尽くす書架。そこには、数千、いや数万冊の革装本が眠っている。

 古い紙の匂い。獣の皮をなめした革の匂い。にかわを煮た時の独特の獣臭。

 それらが混じり合い、まるで部屋全体が一つの巨大な有機体であるかのような錯覚を覚える。

 部屋の中央、黒檀の巨大なデスクの奥に、その男はいた。

 窓からの灰色の薄明かりを背負い、逆光の中に沈むシルエット。

「ようこそ、遠い東の国から来た魔法使いソルシエール

 男が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。

 声。

 それは聴覚を刺激する空気の振動というよりは、直接骨伝導で脳幹を愛撫するような、低く、湿度を含んだバリトンだった。

 アラン・ド・ヴァルモン。この城の主であり、欧州の裏経済を動かす投資家とも、稀代のサディストとも噂される男。

 近づくにつれ、彼のかおが露わになる。

 彫像のように整った美貌。だが、その肌は病的なまでに蒼白で、血管が青く透けて見えるほど薄い。色素の薄い灰色の瞳は、ガラス玉のように冷徹でありながら、その奥底に狂気じみた熱量を秘めている。

 彼は透子の前に立ち止まると、値踏みするように視線を走らせた。

 その視線は物理的な圧力を伴っていた。透子の着ているツイードのジャケットを通り越し、ブラウスを溶かし、その下のレースの下着、そして強張りながらも熱を帯び始めている素肌までをも、視線だけで剥ぎ取っていく。

「魔法使いではありません。私はただの職人です、ムッシュ・ヴァルモン」

 透子は震えそうになる喉を叱咤し、努めて事務的な声を出して名刺を差し出した。

 だが、アランはその紙切れを受け取ろうとはしなかった。

 代わりに、彼の手が伸び、透子の指先を――まだ名刺をつまんでいる指を、そっと包み込んだ。

 氷のように冷たい手だった。

 ぞくり、と背筋に電流が走る。冷たさが、逆に火傷のような熱となって神経を焼き切る。

「美しい指だ」

 彼は透子の指を一本一本、愛でるように、あるいは検品するように撫でた。

「糊と革と、メスを扱う指……。常に傷つき、薬品に荒れ、それでもなお再生を繰り返す職人の指。君の評判は聞いているよ。どんなに損なわれた本も、君の手にかかれば処女のように蘇ると」

 アランは透子の親指の腹を、自らの親指で強く擦った。指紋の溝に食い込むような感触。

「だが、君自身はどうなのかな? 他者の傷を癒やすその手で、自分自身の空虚を埋めることはできているのか?」

「……仕事の話をさせていただけますか」

 透子は反射的に手を引こうとしたが、アランの力は意外なほど強く、逃れることはできなかった。捕食者が獲物を押さえ込むような、絶対的な力。

「焦ることはない。時間は十分にある。……そう、永遠のように長い夜がね」

 彼は意味深長に微笑むと、ようやく透子の手を離した。

 解放された指先が、喪失感に痺れていた。

「ご依頼の品を見せてください」

 透子は平静を装い、話題を変えた。

 アランはデスクの上にあった一冊の本を手に取り、透子に差し出した。

 それは、見るも無惨な状態だった。

 十八世紀のものと思われる総革装。だが、表紙の革はひび割れてめくれ上がり、背表紙は砕け、ページは湿気とカビで癒着して一塊の石のようになっている。

 まるで、激しい拷問を受けて息絶えた肉体のようだった。

「マルキ・ド・サドの未発表手稿を含む、特注の祈祷書だ」

 アランが囁く。

「かつて、ある修道女が隠し持っていたものだと言われている。昼は神に祈り、夜はその祈りの言葉で自らを慰め、冒涜的な悦楽に耽った……。信仰と背徳が、一冊の中で交尾している本だ」

 透子は白い手袋をはめ、慎重に本に触れた。

 専門家としての目が、瞬時に損傷レベルを分析する。支持体シュポールの劣化は深刻だ。だが、修復は不可能ではない。

 しかし、本に触れた瞬間、指先から奇妙な感覚が伝わってきた。紙や革の感触を超えた、何かもっと生々しい、人の皮膚のような温もりと怨念。

「……これを直せと?」

「そうだ。かつての美しさと、淫らさを取り戻させてほしい」

「三ヶ月。それだけの期間が必要です」

「構わない。ただし、条件がある」

 アランがデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。羊皮紙のような質感の紙に、優雅な筆記体で綴られた契約書。

「この本の修復には、特殊な環境が必要だ。移動による振動や湿度の変化は命取りになる。したがって、作業はこの城の地下にあるアトリエで行うこと」

「それは構いませんが……」

「まだだ。君もまた、この城の一部となってもらう」

 アランが契約書を指で弾いた。パンッ、という乾いた音が、透子の心臓を跳ねさせた。

「期間中、城からの外出は一切禁ずる。外部との通信も、私が許可したものに限る。そして――」

 彼はデスクを回り込み、透子の背後へと回った。

 気配が、首筋に迫る。

 微かに香る、サンダルウッドと麝香ムスク、そして消毒液のような冷たい香り。

「私の提示する『生活規律』を遵守すること。これには、食事、睡眠、そして衣服に関する指定も含まれる。私の許可なく、その肌を隠すことは許されない場合もあるだろう」

 透子は眉をひそめて振り返った。

「衣服の指定? それは、職務とは無関係な要求です。私は修復師としてここに来たのであって、あなたの愛人やメイドになるためではありません」

「無関係ではない」

 アランの手が伸び、透子の眼鏡をゆっくりと外した。

 視界がぼやけ、アランの顔が揺らぐ。その不安感につけ込むように、彼の手が透子の頬に触れた。

「この本は、人間の皮膚で装丁されているという説がある。これを直す者は、自らの感覚を極限まで研ぎ澄ませなければならない。君の論理で固められた理性の殻を剥がし、生身の神経を露出させる必要があるのだ」

 狂っている。

 透子の頭の中で、冷静な部分が警報を鳴らし続けていた。これは明らかなハラスメントであり、異常な契約だ。即座に荷物をまとめて立ち去るべきだ。

 だが、透子の足は床に縫い付けられたように動かなかった。

 アランの言う「理性の殻を剥がす」という言葉が、呪文のように内側に響いていた。

 ――剥がしてほしい。

 誰にも見せたことのない、いや、自分ですら直視してこなかった内側のドロドロとした欲望を、この男なら暴いてくれるかもしれない。

 その期待が、恐怖と同じ分量で、いや、それ以上の質量を持って透子を支配し始めていた。

 アランは胸ポケットから万年筆を取り出し、キャップを外して透子の唇に押し当てた。

 硬いペン先が、柔らかい唇を割り入る。

 鉄の味。インクの苦み。

「サインを。それとも、逃げ帰るか? 安全で退屈な、紙屑のような日常へ。誰も君の本当の中身を読もうとはしない、孤独な世界へ」

 透子は震える手で万年筆を受け取った。

 その軸は黒く艶めき、ずしりと重かった。それはまるで男根のメタファーのようであり、同時に権力の象徴でもあった。

 彼女は契約書に視線を落とした。そこには目が眩むような報酬額が記されている。だが、今の彼女にとって、金など紙切れ同然だった。

 彼女が求めていたのは、この「檻」だった。

 自分を縛り付け、責任という重荷から解放し、ただ感覚だけの存在へと堕としてくれる、甘美な地獄。

 ペン先が紙を走る。

 サラサラと音を立てて、透子の名前が刻まれていく。インクが紙の繊維に染み込んでいく様は、まるで白いシーツに散った処女の血痕のようだった。

「……契約、成立だ」

 アランが口元を歪めた。

 それは慈愛に満ちた微笑みというよりは、罠にかかった獲物を愛でる捕食者の、残酷な安堵に似ていた。

 彼は透子の手から万年筆を抜き取ると、彼女の耳元に唇を寄せた。

「ようこそ、私の実験室へ。透子」

 名前を呼ばれた瞬間、透子の世界は閉じた。

 いや、開かれたのだ。

 重厚な扉が閉ざされる音とともに、理性という名の安全装置が外され、深い闇への落下が始まった。

 窓の外では、雨が激しさを増していた。

 その雨音は、もう拒絶の音ではなかった。これから始まる秘密の儀式を、外界から隠蔽するためのカーテンの音だった。

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